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2017/08/22 22:01 |
きねんび...つづき
昨日は終戦記念日っつーことで
ちょっとだけナマイキ書かせてもらいますた。

からのテレビでやらなくなったっつー
あの名作もちょっとだけ載せていただきますた。


それを受けてか
ウチのばーさん...じゃなかったオフクロからこんなメール。

まー誤字脱字はありますが
あえてそのままコピペさせていただきます。

何か感じてもらえれば。


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終戦の年、私は一年生でしたが、その年の春にも入学式の記憶も、学校の記憶も無い
です。たぶん戦争が厳しい状態になっていて、終戦を満州で迎え、引き揚げの途中
で、父はソ連に連行され、その後は戦犯としてシベリアに抑留され、わたしが高校3
年になる春最後の船で帰りました。舞鶴の港で父に会ったのですが長い間の親子のブ
ランクに戸惑って複雑でした。母は昨日まで使用人を抱えた生活が一変して、3人の
子供を抱えた逃避行は並大抵のことでなく、揚子江を渡る船の中でこのまま沈めばい
いと思ったとか。

弟をおんぶして、私と妹を歩かせると、ほとんど最後を歩くなか、当時芸者さん
だったりした人に随分と助けていただいたらしかったです。父は、特務機関という情
報が入るところで働いていたので、ソ連軍が満州に入ることも戦況もわかってたはず
なのに、と母は言ってましたが情報を漏らすわけにもいかなかったのでしょう。もし
もの時は、子供たちを殺して自分も死ぬように、と母にピストルの練習をさせたそう
です。土に向かって撃ったそうですが反動でなかなか難しかったそうです。空恐ろし
いとも思わず、ソ連兵につかまったら、どんなひどい目にあうかもしれないと思った
らしいです。どこから船に乗ったのか記憶がありませんが大きな船だった気がしま
す。イルカが二頭船についてきた記憶があります。

帰国後、母は人の世話で郵便局で保険の勧誘の仕事をし、5時以降は、自転車で田舎
のほうまでお菓子など売りに行き、働きました。金ヶさきの実家の母(私の祖母))
が暗くなる道を心配してむかえにでたものでした。私は、江刺の叔母(母の姉)の所
に1生から、4年生まで世話になりました。

夏冬の休みには、母の所に戻りました。叔母は旦那さんにも死別して、教員をして4
人の子供を育ててましたので、私はおばに連れられて学校に行きそのままよく春には
2ねんせいになりました。

私と同じ年に引き上げてきた人たちは翌年一年になったようです。父は殆んど抑留中
の話もせず、にいましたがシベリア時代をともにした人たちがたまに来ていました。
両親が死んでから、お悔やみか何かもらったのがきっかけで、江刺の人で父よりかな
り若かったひとでしたがときどきぶんつうをしました.

シベリアでは、水ぶろの拷問にあったようです。

苦しい時の短歌や、おだやかな短歌を詠む人でした。その人も亡くなり父の話をする
人もなくなりました。

今、懐かしい風景として、昭和が話題になるようですが、食べるものにも困った戦争
を挟んだ時代も忘れてほしくないですね。

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これがウチのオフクロの
戦争の、終戦の、今のリアルです。




ばーさん、勝手に載せてごめんなさいーー!
















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2014/08/16 09:28 | Comments(0) | ブログ

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